国際結婚のリスクの話
わたしとAさんは、国籍が異なりますので、国際結婚を目指していることになります。どんなカップルでもある種のリスクを抱えていると思うのですが、国籍を別にするカップルにも特有のリスクがあります。
避難と国籍
例えば、現在、大騒ぎになっているコロナウィルスの問題だと、「避難」というキーワードがあります。その観点から気になるニュースを見つけました。
また、中国人配偶者の帰国も懸案となっている。政府関係者によると、湖北省に残された140人の中には、中国人と結婚し、子どもを持つ邦人が数十人以上いるという。
中国当局は中国人の出国は認めていない。邦人が日本帰国を希望していても、妻などが出国できないため、家族が離ればなれになるのを避けようと現時点では帰国に踏み切れない人が多いという。
日本政府は中国に対し、人道的観点から中国人配偶者の出国を認めるように働きかけているが、認められる見通しは立っていない。
ここでは各政府の立場を考察することが目的ではありませんが、移動制限をかけている状態で個別の例外として外国政府による自国民の移動だけを認めたいという現地政府の政策も理解できますし、避難をスムーズに進めるために家族単位の移動を可能にしたい国外政府の政策ももっともです。
結局大規模で緊急の政治的問題が発生したときに、わたし達の持つ国籍は大きな意味合いを持ちます。そしてどんなに日常生活では意識せずに済んでいたとしても、持つパスポートが違うということが、実際の生活に影響します*1。
支援の狭間での決断
引用した記事は、このような事態が発生したときに様々な支援策の狭間に落ちてしまうことがありうると気づかせてくれます。
何より今家族を残して避難した方や、家族一緒に過ごすことを決断した方のことを考えると、どちらもどんなに不安であろうかと思いますし、決断を下す力に尊敬の気持ちを持ちます。他人事でなく、そのように思わざるをえません。
決断の力
(ないことを願いますが)天変地異はいつでもどこでも起こります。予定通り日本に生活したとして、「Aさんは現地語の通じない状態でストレスに耐えられるか*2。もしかしたら一時的にでも日本国外に退避した方が、安全なのではないか」……そういう決断を迫られら日が来るかもしれません。その時にわたし達は冷静になって考えることができるか。出来なければならないわけですが、その力があることを願うばかりです。
買い物したどーの話
昨日の寝る前電話しようとしたらAさんが出ません。「もうパリでは朝じゃないのになんでだよ」と思いましたら、「買い物しているから、電話できないぞ」というメッセージが来ました。あらそう。
そのときは週末の買い物をスーパーでしていると思いましたので、「まあ土曜日のスーパーは戦場だからな」と思いまして寝ました。
土曜日のスーパーは戦場の話
どうでもいいことなんですけれど、ドイツ*1とフランス*2の土曜日のスーパーは戦場です。なぜこんなにみんな買うのかしらと思うほど、皆さん買います*3。
というわけで、土曜日のスーパーは戦場。邪魔されたくないAさんの気持ちもよくわかります。
買ったものが全然違った
朝起きたら、「コート買ったどー」というメッセージが。え? 「しかも赤いコートだぞー」だそうで……ええ? 「あ、そうそうブーツもね」……ふがっ!
「何が起こったかは、明日起きたら教えるね。おやすみ」
とだけ残されたメッセージを見て、ワタクシ一気に目が覚めましたの。
写真がない
Aさんはわたしがユニクロで買い物しても、「写真がないとはナニゴト」と仰るのに、Aさんが買い物したはずの今回は写真がありません。ナニゴト。
ということで、Aさんが起きたら問い詰めたいと思います。
何時に電話しようかしら。
無駄な学びの話
よく聞く話ですが、大学での必修の第2外国語*1に対する反対意見というのはとても根強いですね。実際に第2外国語を必修にしない大学も増えています。
例えば、現在フランス語で生活されている(おそらくトライリンガルな)方は、フランス語を必修の第2外国語として学習することには意味がないと感じてらっしゃるようです。その方の結論は、こうです。
第2外国語が必修科目にされている学生は、勉強しないわけにはいきません。第2外国語の勉強は最小限にとどめておいて、本当に自分のためになるものを学習したほうが有意義です。
大学院で研究する際に、英語以外の言語が読めると便利という理由もあるのでしょうが、それなら研究者になってから勉強を始めてもいいと思うんです。
言語は習得するまでに、膨大な時間とエネルギーがかかります。一生をかけて学び続けるものです。趣味や遊びとして外国語を学ぶという人もいますが(それはそれでいいと思います)、”さわり”程度に外国語を学習することに価値があるとはやはり、どうしても思えません。
このような結論に至る理由として著者の方は、
- 大学で学習する2年(あるいは1年)では使い物にならないこと
- 他に勉強すべきことはあるはずなこと(英語およびプログラミング)
を挙げてらっしゃるかと思います。
使い物にならないこと
外国語が2年の学習で使い物にならないことは、それが事実であることを認めるとしても*2、学び始めないことの理由にはならないということも同意していただけるかと思います。2つの場面に分けて言いたいと思います。
1. 特に特定の分野の研究者や通訳者や翻訳者は、言語を道具として使いますので、まず研究者・通訳者・翻訳者になってから学習し始めるというわけにはいきません。語学ができて初めて仕事ができるようになる職業を目指すのであれば、使い物になろうがなるまいが大学1年で第2外国語を習得せざるを得ません*3。
2. しかしすべての人が言語のプロになるわけではありません。そうならない人に、使い物にならない言語の習得を強いるのは無駄ではないかという点は残ります。上記のブログ記事の著者の方も同意してくださると思うのですが、何かを「必修で学ぶことが無駄」かどうかは、立場によって分かれるように思いますし、無駄と感じるかどうかはその後の人生から振り返って初めて決まるのでしょう。さらに言えば、習っているときや、その直後には無駄に感じられたことが後から役に立つことだってあるでしょう。わたしの場合、線形代数がそうでした。
そして何より、使い物にならないことをもってすぐに「無駄な学びであった」と結論づけるのは、学びということの本質的な部分を捉え残っているように感じます。
すぐに役立つことを学ぶこと
英語やプログラミングがすぐに役立つ知識として習得されるべきであるという論点にも、いくつかの留保を必要とするように思います。まず上記のことからご理解いただけると思うのですけれど、英語もプログラミングも学ぶに値するとわたしは思います。現にわたし達の生活は英語の尽きることのない学習に依存しているわけです。
ここでわたしが論じたいのは、英語もプログラミングも「役立つ」という観点からは、非英語第2外国語の学習と変わらないということです。
わたしは、小中高大と一貫して英語を勉強してきました。英語は、おそらく、大学で学習すると卒業後すぐに役立つとしても、それはそれまでの学習の蓄積の上に成り立っているからです。ここで道は2つに分かれるように思います。
- 「2〜3年やったところでたかが知れている」論法を小学校に当てはめ、中学校に当てはめ、高等学校に当てはめて……いくパターンです。これはあまり愚かですから、考えないことにします。(とはいえ、英語が苦手だと思っている方にはこのように考えている方が少なくないように思われます。)
- これまでの蓄積を活かすために、持てる知的資産を英語に集中すべきだと考えるパターンです。
2のパターンは一見すると説得力がありますが、ここにもう1つの問題があります。それは、「今役に立つ」という知識は陳腐化するということです。英語が支配的な言語になったのは比較的最近(人生の半分以下だった人もいる程度)のことです。英語一強の時代はどれほど続くかはわかりませんが、しかし職業人生のどこかで英語は主要な言語の1つに地位を落とすことも十分に考えられることです。
プログラミングについてはその陳腐化のスピードがもっと速いのです。わたしが小学校から高校でならったBASICという言語は使っている人はもうほとんどいないでしょうし、大学で習ったJAVAの構文は今では当時とだいぶ変わっているようです。「すぐ役に立つ」レベルの知識は、すぐ陳腐化するのです。陳腐化しないのは、アルゴリズムなどの抽象的な技法についての知識です。さてこれが役に立つか。むずかしいところです。少なくとも第2外国語について挙げられた「習得するまでに、膨大な時間とエネルギーがかかります。一生をかけて学び続けるもの」であることは間違いないように思います。
役に立つかどうかと関係なく、学ぶ理由はあれども、学ばない理由などない。おそらく英語やプログラミングはあるのでしょう。第2外国語もそこに加えていただければ良いなと思います。
必修であること
さてこれまでの議論は、「第2外国語を学ぶ理由はあるけれど、学ばない理由はない」という程度の議論でした。しかし「学びたい人だけ学べばよくて、必修である必要はないでしょう」という論点については一切考えてきませんでした。
最近は第2外国語を必修にしない大学も多いのですが、万一、必修になっている大学に進学してしまった場合、無駄な単位*4を取ることになるのでしょうか。
大前提ですが、基本的には何を必修にするかは、大学や学部の決めることです。受験生の皆さんは公開されているシラバスや履修要項をご覧になることをおすすめしたいのです。つまり本当に「絶対第2外国語は無駄だ」と思うのであれば、それを課す大学は受験しないことになります。
それでも必修で新しい外国語の基礎を学んでみることは、良いことだと思います。もしかしたら英語よりあなたに向いているかもしれない。もしかしたら英語についてより立体的な理解が得られるかもしれない。もしかしたら「国際化」は英語化と違うことを意味しないといけないと納得できるかもしれない。これらの可能性を気づかずに大学を卒業してしまうのはもったいない、そう思うからです。
*1:「第2外国語」ということで、英語以外の言語を自動的に指すことに、わたしは強固に反対したいと思います。少なくともわたしは、ドイツ語を学ぶことを先にはじめましたので、英語がわたしにとっての第2外国語です。
*2:実際には、「使える」にも色々なレベルがあります。B1のレベルであれば、必修の授業で十分動機づけられた学生であれば到達するはずです。
*3:ちなみに、言語のプロが「すべての人が(第2)外国語を学ぶ必要がないのではないか」と言い出したときには、わたしは注意深くなるようにしています。それは結局、その方の市場での優位性を言いたいだけかもしれませんから。
*4:週2コマだと、2時間の講義を2つと4時間の予習復習が想定されています
座持ちの話
見世物になりたくない
小さなお披露目の会をすることにしたわたし達ですけれど、(そんなに知り合いがいないということは措いておいても)小規模にやりたい理由の1つが、わたし達が見世物になりたくないということにあります。(もちろんそんな予算はありませんけれど)Aさんが一時期ハマっていたようなリアリティTVのようなことはしたくないのです。
ちょうどそう思っていたところに、次のような記述を見つけて、思わずとても深くうなずいてしまいました。
そして、花嫁の手紙も本心ではやりたくない私。やりたくないよ~~、そりゃ感謝を伝えるいい機会だけど、私自身がそういうコンテンツになることに抵抗を感じる
ブーケと中間見積と動画撮影について - アラサーオタク結婚準備ブログ
もちろんわたし達は言語の問題がありますので、感謝の手紙はやりません。感謝の手紙を通訳したら、それは国際会議で、全然感動もへったくれもなくなります。しかし問題は感謝の手紙にあるのではなくて、個人的な部分をコンテンツとして消費されることへの不安というか不満です。
わたし達が結婚するということについては、もちろん、色んな人に受け入れて頂くことも大事なことですから、ちゃんと型どおりにお披露目をすることは良いことだと思うのです。
それでも色んな人に受け入れてもらえるためであったとしても、わたし達の個人的な感情的部分を演出付きで消費してもらいたくはないのです。
座持ちのことを考える
それでも分かってはいるんです。座持ちのことを考えたら、何かやらなくてはならない。写真に取りやすいこと(たとえば、2人で和装して出てみるとか)は考えないといけない、と。そういうこともないと1万kmも離れたところからやってきた人にとっては、ちょっと美味しいものを食べさせられただけでなんにもエンターテイメント要素がない会になりますし、それはとてもがっかりするでしょう。
新井素子の『結婚物語』にも、ケーキカットとキャンドルサービスをしないと座持ちしないという話が出てきますが、「人を呼ぶというのは座持ちのことも考えることでもあるのだ」と言われれば、わたしだって不承不承同意せざるを得ないのです。
座持ちの問題を考えると全くわたしにはどうしていいのやら見当もつきません。もういっそのこと、座持ちしないお披露目など無しにしてしまえば良いのではないか……と思わないでもないです*1。
挨拶だけでつなげるのか
どうしても困ったら、少人数だから全員に何か一言言ってもらえばなんとかなるような気がしますが、「それをやるにしても、その通訳をわたし達がしたらおかしい 」とわたしの飲み友達は強固に主張します。そういうものかしら。
座持ちの問題は日本だけではない模様
ちなみに、座持ちの問題は日本だけではないようです。例えば、アメリカの結婚関係の掲示板を読んでいると、「ダンスをしないと座持ちがしない」という記述が多く出てきます。アメリカやドイツやロシアの結婚披露宴は夜通し行われるので、どうやらDJを雇ってダンスフロアを作るのが普通のようです*2。そしてこれを「したくないんだけど」という相談者が一定数いるのですが、そのような相談者に対して必ず挙げられる反論が「座持ち」です。
「ロシア人は靴を脱ぐのだ」の話
2人が付き合うと、これまでの生活の違いをすり合わせるのが大事な作業になります。これはお互いの出身がどこであろうとも、どんな2人であろうとも、そうだと思うのです。そして生活の違いをすり合わせるたり、さらについて折り合いをつけたり……できているうちは、たぶん、2人の生活を過ごしていけるのでしょう。国際恋愛だの、インターレイシャル・カップルだのと言っても、あまり特別なことはなくて、最後は個人の生活を2人の生活にするところが大変でかつ楽しいのでしょう*1。
一方で予期せずにお互いの習い性が一致することもあります。今日はそんな話。
パリでは靴を脱いでる
Aさんは家にあがるときに靴を脱ぎます。パリで出会ったときからそうです。
最初のうちはわたしの家で会うことが多くて、「わたしが脱いでるからAさんも真似して脱いでいるのかしら」と思っておりました。というのもドイツやフランスでは、脱ぐおうち脱がないおうち色々だからです*2。というわけで、多くの友人が「君んちは靴を脱ぐのかね」と訊いてくれたものです。ちなみに、お客さんが来たときだけ、土足解禁という家も結構あります。お呼ばれすると「靴のママどうぞ」と言われますが、玄関を見るとあきらかにみんな靴を脱いでいる場合です。靴置きがあったりしてみんなホストの家庭のみんなが靴を脱いでると、わたしは「日本人なので」と言い訳して靴を脱いでました。だって楽なんだもの。
ところが、Aさんのアパートに遊びに行くと、そこでもAさんは靴を脱ぎます。曰く、「ロシア人はみんなそうする」と。なるほど。巨大なロシア全体でそうなのかはともかく、Aさんの育った環境では、そうなのね。そう、わたしは思いました。
モスクワでもそうらしい
Aさんは仕事で、モスクワに長期滞在していた時期がありました。
モスクワはAさんの故郷の街から1,800kmあまり。これだけ離れていれば、もしかしたらアパートでの暮らし方も違うかもしれません。
というわけで、Aさんがルームシェアで住んでいたアパートに着いたときにも訊いてみました。
「靴脱いでいいのかしら」
Aさんは涼しい顔で「当たり前でしょう」と言います。確かに見ると、大家さんの靴が大量に玄関先に並べられています。
なるほど。モスクワでも靴は脱ぐのだ。
靴問題は解決した
てなわけでわたし達の間に、家で靴を脱ぐのか問題(おおげさ)が存在しないことを確認しました。
アパートを借りようとして、不動産屋さんや大家さんが、
室内の土足厳禁は当たり前ですが、やはり外国人の中には靴のまま生活をしている方が少なくありません。
などと言おうものなら、にっこり笑って「ロシア人は靴を脱ぐのだ」と言えば良さそうなこともわかりました。
にっこり。
経由地の話
春は東京ということになりました。
ということで、ギリギリになってしまいましたが、航空券を取ることにいたしました。今回選んだ安い航空券は、チューリヒ経由成田空港着。
同じルフトハンザ系列でも、ドイツ経由だとやっぱり高い。なぜかしらね。本社だからかしら?
中国を避ける
今回経由地を選ぶにあたって、中国本土(と香港および台湾)は避けることにしました。コロナウィルスが日本にだって上陸して伝播しないとも限りませんが、現在のところで避けられるリスクは避けておこうということにしたのです*1。
本当はね、わたしたち中国国際航空がお気に入りなんですよ。機内でスマートフォンは使えませんが、おおむね接続は順調で*2、サービスが過剰ではない……非常にいい感じの航空会社なんです。
でもおそらく今のペースでコロナウィルスが伝播していくと、中国経由の航空機の検疫は厳しくなるでしょうし、そうなると入国に余計な時間がかかるでしょう。
欧州を経由地とする
直行便はだめ
マイルがずいぶんたまりましたので、直行便も格安で買えるかしらと試してみたのですが、やはりわたし名義じゃないとマイルを使って購入することはできないようです。これでマイル使用の試みの失敗は2度目。悲しいです。
中東は利点がない
中東を経由地にするというのも考えたのですが、Aさんは「今はイランの上を飛びたくない」と仰るし、値段もあまり安くありませんでしたのでこれも却下になりました。
欧州経由が残る
結局残るのは、欧州域内を経由地にすることでした。それでもロンドン経由はわたしがあまりいい経験をしたことがないので、羹に懲りて膾を吹くことにしました。
結果としてはAさんが滞在許可を持つシェンゲン協定圏内の空港になりましたので、何かあっても(あったら困りますが)空港から外に出られる自由があるわけで、それはいいことだなと思います。
さ、楽しみだぞ。
*1:経由地としての中国を忌避することについて、このブログに書いたものか、随分悩みました。記事を書いては消し、書いては消しした結果こういう記事になったわけです。
インターネットでの言説を見ていると、日本語でもドイツ語でもかなり感情的な記事も多いですし、ものによってはあからさまに差別的な言辞を追加しているものも見受けられます。
無論わたし達の決断が、感情に左右されていることを否定することはできません。ある種のパニック反応なのかもしれません。一方で、3月後半の段階で中国政府がコロナウィルスの封じ込めに成功すると分かっているならば、わたし達はこのような決断をしないだろうと思います。
無知ゆえの不安。わたしはこのタイプの不安が危険であることを知っています。わたしの反応が、わたしを危険な方向に連れて行かないか。ここからは、それを注視したい。今願うことは、わたしに冷静さが早く戻ってくることです。
*2:Aさんが接続便を逃した回は、羽田の管制による混雑緩和のための出発延期でしたので、航空会社のせいとは言えません。
「純」の話
ある芸能人の方のパートナーについてニュースになっていて、思わず読んでしまいました。というのもその方はブラジル人の方との国際カップルだというのです。「それはどういう感じかしらね。うちと似ているのかしら」と思ってクリックしたのですが、どうもそういうことについては書かれておりませんでした。
しかし期待と違って書かれていたのは、どうもその芸能人の方のパートナーの方が「ハーフ」だという噂が流れているが、それをテレビで見たパートナーの方が「違う」と仰って、「純だから」と仰るという流れの番組構成だったということでした*1。
この記事を読んでいて引っかかったのは、「純」と「ハーフ」っていう表現です。「純」という表現はとても危険な表現ですし、危険な考え方です。メディアに出ている人が、「純」とか「ハーフ」という言葉を振り回すのは、かなり頂けません。
純ジャパ
とても気持ち悪い表現ですが調べてみると、例えば「純ジャパ」という表現は、割と人口に膾炙しているようです。はてなブログにも「純ジャパ」という単語の入ったブログがあるようでおすすめされたりしておりますし、なんと、google日本語変換は、「junja」まで打ったところでちゃんと変換できてしまいました。
ちなみに学校関係の場所だと*2、「純ジャパ」と呼ばれるのは、
- ハーフではない
- 帰国子女ではない
人を指すようです*3。そしてこの「純ジャパ」という表現を使うのと同じ気持ちで、ブラジルの方を「純」だとよんだのかもしれません。
問題
「純ジャパ」という考え方は多くの問題があります。まず、「純ジャパ」が想定しているような、「ジャパ」なるものは妄想です。「日本は単一民族の云々」ということを想定するなら、端的に事実と異なることを考えています。
「ジャパ」なるものが妄想なのを無理やり措いておくとしても、「純」ということに、ポジティブな意味合いを見て取るならば、「純ジャパ」という考え方にはとても人種差別的な考え方が潜んでいます。その観点からは、「ハーフ」という考え方はそもそも大問題です。
さらにそれを無理やり措いておくとしても、「ハーフ」であることや帰国子女であるから何が違うのでしょうか。家族の出自や教育上の背景は、個々人の生活に影響を与えます。でも薄口しょうゆを使う文化からやってきた人を「薄口」と呼んで区別することはないでしょう。
純ジャパという区分はやめようぜ
わたしは「純ジャパ」という概念がなくなることを希望します。「純ジャパ」という表現を狩りたいのではなくて、そもそもそういう区別をやめようと提案したいのです。上で書きましたけれど、
- 「純ジャパ」、「ジャパ」なるものは妄想だし
- 「純」なるものが示唆するポジティブさはちっともポジティブじゃないし
- 「純ジャパ」と「ハーフ」の区別が示唆する違いは、意味がないのです。
このことを認めるならば、無駄な区別を導入する理由はないのです。
*1:ちなみにその記事に、「サンバ上手なの」とという反応がスタジオであった旨書かれておりましたが、そういう好意的な偏見については、またちゃんと書かないといけません。
*2:英語のトレーニングの観点から、「純ジャパ」という概念のネガティブな含意について考察したブログがありました。
この言葉は純ジャパ「なのに」英語が喋れる、とか純ジャパ「でも」TOEIC900点とかいう文脈で使われていることが多いです。 こういった文脈で使われていることを考えると、「純ジャパ」というのは日本語以外の言語はできないという前提で使われていて、さらにその状態を卑下している感じがするんですよね。 つまり、「純ジャパ」というだけでなんだかネガティブな印象がある。
純ジャパって言葉が嫌い - 常に学生でありたい
「純ジャパ」という言葉が学校関係で使われる際には、英語へのコンプレックスというのは確かにありそうです。「ハーフ」であることや帰国子女であることと英語の関係については、いつか記事にしたいと思います。
*3:わたしはしたがって、「純ジャパ」とは呼ばれないのでしょう。