CDG-HNDな遠距離国際恋愛日記

パリと東京。Aさんとわたし。

紋切り型をどうするかの話

最近色々と話を展開させるために、フラフラと考え事をしております。そのときにふと思いつきました。

「人を説得するための結婚や婚約というのは、結局、どこかで紋切り型でなくてはならないのだなぁ」と。

家族や友人であれば、ある程度まで、「らしいね」と言ってもらうことも大事だと思うのです*1。けれどもその親兄弟だって、逐次わたしのことを追いかけているわけではないのですから、ある程度型に従っていた方が状況を理解しやすいのではないかしら、と思うようになったのです。実際に親兄弟に、「法律婚します」と言ったところ、フランス事情に詳しい母以外は大変安心したようなそぶりを見せるのです*2

 

 

紋切り型とビザ

さらに言えば、わたし達が一緒に住むためには、ビザや滞在許可の発給担当者である他人から見ても「それ結婚だよね」というステップを踏む必要がある気がしてなりません。とてもダメな考え方ですが、どこかに正解なら標準となる雛形があって、その通りにことを進めておけば、審査に通り易くなるのかもしれないと思えてきます。

実際に、行政書士の先生方が書くような(広告の)文書でも、色んな「条件」が書かれています。そしてそれをゲームのようにクリアしていくしかないような印象を受けます。

紋切りの気持ち良さ

そもそも結婚に関係するイベントなんて、どれも普通ではない出来事です。それを「特別」と呼ぶか「異常」と呼ぶかは、考え方によりますが、普通ではない。その普通ではない出来事に、紋切り型は、謎な風習を導入して「ある意味普通」と呼べる文脈を用意するのです。「これはまあ普通なんだ」と参加者全員が理由なく受け入れることの安心感は否定出来ない気がします*3

気持ち良さ

問題はそこにゲーム的な要素があることです。違和感があればあるほど、軽めの征服感があってよろしい気持ちになります。認めてしまうのは、恐ろしいですが、「こうすれば簡単に受け入れられますよ」と囁く紋切り型の魅力は、このようにして捨てがたいものになります。

危険

しかしこの気持ち良さや安心感には、気をつけなくてはならないようにも思います。日本にいるわたし達が現在気持ち良く感じる紋切り型は、必ずしも、Aさんやご家族、お友達が気持ち良く感じる紋切り型とは異なるはずだからです。

Aさんとわたしは、紋切り型に過度に依拠する訳にいかないのです。どこかで、わたし達とわたし達の周りが何となく気持ち良くなる、謎の慣習をでっち上げる必要があります。

どこにバランスがあるのか、悩みます。

*1:そしてわたしの友人たちにとって、「らしい」のは、披露宴はしない、だとも思うのです。でもまあ、両親をロシアから東京に呼び出して、何もしないのはあまりにひどいと思うので、お披露目もしたいと思います。

*2:母は「PACSじゃなくて良いの? ちゃんと確認したの」と確認してくれました。

*3:もちろん、結婚関係の情報を検索すれば、「2人らしさ」を強調したサイトばかり見つかります。しかしオリジナリティは発揮して良い場所といけない場所に比較的明確な区別があるようです。結局、結婚周りの「らしさ」は紋切り型を前提として初めて意味をなすのかもしれない。それが本当だとしたら、それは悲しいことだな。そう思うのでした。