内向的な人のお披露目の話
様々な簡易テストで人の性格を測ろうという企図がなされています。専門家ではないので、それらがどの程度信頼できるのかはわかりませんが*1、そういうものを使うとわたしはどうやら内向的な性格のようです。
内向性は決して人嫌いを意味しませんが、パーティなどに参加すると割とすぐにエネルギー切れになる……のような記述を読むと、まあそんな感じかなという気がします。
内向的な人が、お披露目のような外向的な人に極めて向いているイベントをやろうとすると、それはそれなりの準備がいるなと思うのです。
お祝いは嫌いじゃない
上でも書きましたが、別に祝い事が嫌いな訳ではないです。なんだったら結構好きな方です。ただ、人が大勢いたり、音や光の演出がきついと、疲労があっという間に蓄積して、逃げ出したくなるのです。
静かに、少人数で、しみじみ「良かったね」というのが良い。そういうことです。
少人数でしみじみは難しい
祝い事は嫌いではないのに、少人数でしみじみしたいということになると、普通の披露宴には向きません。ありゃ、外向的な人が外向的な人を招いて楽しく過ごす会です。そういうことに一切憧れがないと言えば嘘になりましょうけれど、できない。できないことはやらないが良いです。
小学生のとき、誕生日会に憧れまして、親に頼んで開催してもらったことがあります。バランスとか適切な人数などわかりようがありませんでしたので、ありったけの知り合いを呼んだのですが、結局、わたしはいつもつるんでいる少人数とだけ話すというホストとしてあるまじき行動にでました。これではダメな訳です。
理想のようで理想ではない解決策
できることなら、1か月くらいかけて親しい人を個別に呼び出してしみじみと「いやはや良かったやね」という食事を繰り返してみたいものですが、まさかそんなことをするわけにもいきません。
連日そんなことをしたら、独りの時間が減るので、きっと疲れてしまうでしょうし、それはまずいからです。
落とし所
結局落とし所は、(わたしにとっては「かなり大きな」ですが)ちょっと規模の大きな食事会をすることなのでしょう。そして出来るだけ演出を削ってみることです。もちろん座持ちの問題は残るのですが。
*1:例えば非常によく使われるMBTIテストについては、多くの批判があります。
「あとから知ったら即別れるね」の話
この間お披露目の会の日程をどうしようかしらねということになりました。下見を兼ねてお話を伺いに行くのに、希望の日程がないのはまずかろうと思いますから。
その時、「13日は避けたいね」ということになりましたので、いい機会だからとお日柄の話などもしてみました。
想像していたことですけれど、Aさんの食いつきは大変良かったです。「あーあ、その話されたら、もちろん気になる決まってるじゃない。その話しない方が良かったんじゃない」と。でも後から気がついて、それが良くない日だったら嫌じゃないですか。「そら、あとから知ったら即別れるね。にやり。」おっとそれはまた物騒なことを仰る。それならもちろん、喜んでお日柄的なやつを計算にいれた候補リストを作成いたしますともさ。
というわけで、2021年の春で、週末で、13日でなくて、お日柄が悪くない……そんな日を希望することにしました。
週末に4日がなくてよかったです。「四」の読み方のバリエーションを説明した上でそれがもつ親父ギャグパワー(違います?)を説明して、「避けたいでしょうか」と英語で訊く……あれこう書いてみると案外楽しそうじゃないですか。
それはともかくあんまり真剣にやると、平安貴族になってしまいます。3回夜這いかけて、和歌を交換して……あれ、これも楽しそう。少なくともブログの記事にはなります。
閑話休題。問題は、こういう日はきっと人気があってなかなか予約できないんじゃないかなとは思うんです*1。
人気などを考えたら色々むずかしいのかもしれませんが、こうやってお日柄をちゃんと気にしてみると、かえって日付の候補が絞れて便利だなということがわかります。これは新鮮な視点でした。ちょっと冷静に考えたら、そらそうですよね。わたしのようにそういうことに頓着しないと、茫漠とカレンダーを眺めて途方に暮れるに決まっていますもの。「春先」とだけ決めたときにその週末の数の多さに、実はくらくらしたものです。
*1:さらに言うと、わたしの転職が迫っておりますので、新しいところでどういう予定になるかを想像できないところが、怪しいのですけれど。まあこれは4月の頭には確定するはずです。
「Weddingとは呼ばない」話
(Note: Ok, A-san, I don't think this post can be translated well in Google translation because it is about translation itself. Sorry)
会の呼称
わたし達の小さなお披露目をわたしは「Wedding」と呼ぶことが多いのですが、Aさんはそのたびに反対します。「わたし達は、『wedding』をするんではない。ちょっと豪勢なお昼ごはんを、家族友人を呼んでするだけである。せめてこれは『reception』と呼ばれるべきである」と。
なるほど。そう言えば、日本でやるからにはわたしたちは法律婚の部分は公開しない(し、婚姻届の記入手続きを公開するのは無理がある)んでしたね。
それにこのブログでも気づいたら「披露宴」と呼ぶよりも「お披露目の会」というまどろっこしい呼び方が多いわけですから、たぶん、わたしもこれはいわゆる「ウェディング!」という感じではないと意識しているのでしょう。
合点がいきました。
なんて翻訳するのかしらね
さて来月、わたし達のイメージする感じをミーティングで伝える必要があるわけです。なんて言えばいいのかしらね。
調べてみると「食事会」というタイプの宴席をする人が少なからずいらっしゃるということがわかりました(正確には、そういうタイプの宴席をオーガナイズしている場所がいっぱいありました)。なるほど。「食事会」って言うのはいい響きだな。楽しそうに、みんながご飯を食べているのはいいことだと思います。それにわたし達は特になにかエンターテイメントを提供するわけでもないですから*1、その意味でも「食事会」ですね。
ただ会場の気持ちとしては、「食事会」というのはごく近い家族だけが揃って、会食をする感じのようです。そういう感じではない。じゃあ、わたし達の会は「大きめの食事会」というイメージが正しいのかしら。ただ形容詞がついていたり、形容詞に微妙な限定がついていたり、言葉の座りが悪いです。
一方で、「うたげ」とかいうとお座敷列車みたいですし、そもそもわたしの偏ったイメージでは宴だとすると誰かがいきなりお祝儀で「高砂や」をやらないと締まらないのです*2。そういう意味では、うちの親戚みんな不調法だなとか思ってしまうので、「うたげ」はやめましょう。
「懇親会」というのもありますが、これはだいぶ仕事っぽい。わたしの仕事だと、メインの会議のあとにやたら懇親会があるんです。名詞とお世辞が飛び交う会になりそうで、ちょっと違うんですよね。(ちょっとじゃないか。)
とはいえ、日本語で「レセプション」は受け付けしか意味しないですよね。会場の方に「レセプションがしたいです」って言ったら、まちがいなく、「受付はわたし達の方で手配します」の意味にしかなりません。
ああ、わたし達のお披露目、なんて名前なんでしょうか。
家族と会う話
ここ数日拝読しているいくつかのブログで、国際結婚と義理の家族との関係についての悩みが書かれていました。みなさん、結婚されてパートナーの住む地域に引っ越していかれた方でした。
わたしはここで立ち止まります。
この「結婚に伴って、相手の本拠地に乗り込む」人はわたし達の関係では、Aさんです。
ということは、Aさんがわたしの両親や兄弟とどういう関係になるかを想像しながら読み返さないといけないということになります。もしかしたら(もしかしなくても)わたしの家族は、Aさんにとって最良の味方になりえるし、最悪な悪夢にもなり得るわけです
*1。
来るたびに会っている
幸いAさんが来るたびに、わたしの家族もAさんもお互いに会ってくれます。会うことを提案してくれてもいます。
きょうだいで会う
Aさんが言うことには、わたしのきょうだいと会うときは、毎回、楽しい時間を過ごしているそうです。
Aさんだけでなくて、わたしたちのきょうだいのパートナーもいることがおそらくいい方向に働いているのでしょうし*2、毎回ちょっと変わったところで会っているイベント感もちょうどいいのでしょう。
両親と会う
一方でさすがにわたしの両親と会うときには、Aさんはめちゃくちゃ緊張しているようです*3。そら、毎回、わたしの両親の家で会って食事をするのに緊張しないわけないな、と思います。というわけで、わたしの両親の家に行くときは、最大2時間で帰宅することにしています。それでもAさんはたいてい食事のあとは「思ったよりずっと楽しかったから、もうちょっといればよかったな」と言ってくれます。
もちろん、Aさんがわたしに気を使って、そう言ってくれる可能性を考えないわけにはいきません。意識的にそうしていなくても、無意識でそうしている可能性もあるわけです。
今回もわたし達は両親の家に行くつもりで予定を組んでいます。しかしもしかしたら、一回くらいどこか中立の場所で会う方が良いのかもしれません。だから緊張しないというわけでもないでしょうけれど、その方が楽なのかもしれません。
日本に越してきたら
今でも大変なのに、Aさんが日本に越してきたらどうなることでしょうか。おそらく状況は簡単にならないのかもしれません。
Aさんとわたしがうまく乗り越えられるように、考えなくてはなりません。考えて行動しなくてはなりません。
最近拝見したブログを拝見して、そう思いました。
連絡を取る話
Aさんが春に東京に来るタイミングでお披露目の会場の候補をいくつか周りたいなと思っています。航空券を取りましたので、2人で目星をつけた場所に連絡を取り始めているところです。
会場の目星をつけるにあたっては、インターネットで検索したいくつかの場所にお願いして、予算の概算を送ってもらっておりました。
2週間の滞在期間中に訪問できる数は限られていますので、資料を頂いた場所に全部回れるわけではありません。ということは数を限らないといけないわけです。当然ですが。
やはり資料をくださいとお願いしたときに、びっくりさせられた場所はこういうときにそっと候補から外れていきますね。例えば、何度もお願いしないと概算を出してくださらない場所だと、不安で相談にもいけないわけです。
もちろん「ここは良さそうだなあ」と思う場所だったり、「ここは美味しそうだなあ」と思う場所でも、いろいろな事情を勘案すると実施が難しかったりするので、資料を頂いて見学にいけない場所がすべて「なんじゃこれ」って思ったわけではないのですけれど。
「英語できます」
わたし達が「第二候補だな」と思っている場所はアメリカ資本の場所ですので、おそらく、英語をしゃべる方がどこかにはいらっしゃるだろうと思っていましたし、実際に相談してみると英語をしゃべる方がいるとのことでした。
むしろ、こっそり「ここは第一候補だな」と思っている場所には驚かされました。そこは純粋に日本資本の場所ですし、やや伝統的なロケーションですが、なんと英語をしゃべる方がいるらしいです。
確かに都内の料亭ですし、日本語を喋らないお客さんがいらしたときに英語をしゃべる方がいると便利なのでしょう*1。相談したところ、その方が忙しくなければ、わたし達のところに配置してくださるとのことでしたのでありがたくお願いしました。
Ready, set and...
さて興味がある場所はすべて見学と相談をお願いしましたので、準備は整いました。さてどうなることやら。
キモノの話
Aさんはお披露目のランチで和装をするかどうか迷っているようです。Aさんは、「わたしが着るのはおかしいような気がする」と言います*1。
一方でわたし側の参加者は今のところ着物を着ようと思っている人が多いようですから、Aさんも和装をすると、雰囲気に合うかなとはわたしは思うのです。
似合うかどうか
Aさんの言うことがどういうことか、今ひとつわからないのですが、よく聞いてみると似合うかどうかがわからないというのがメインのポイントのようです。
それはよくわかります。着てみたこともない衣装が似合うのかは、わかりようがありません。写真のモデルが白人の方であったとしてもそれを見たところで、自分にとって似合うかどうかは、想像もつかないことでしょう。
和装はレンタル費用も安くありませんから、自分がそういう格好をすることに自信が持てるかどうかは大きな問題です。しかもこの点に関しては、わたしは全く役に立ちません。
試着
幸いなことに、この問題には今回の滞在で上手いこと解決がつきそうです。というのも、わたし達がお邪魔するフェアの1つに、和装の試着体験が含まれているのです。
このことを案内して頂いたので、Aさんに伝えたところ、「最終的に契約する義務がないなら、それは是非やりたい」と乗り気です。試着ですらなくて、「試着体験」ですから絶対その点は安心です。
個人的には、今回の滞在の楽しみが増えました。内緒ですが、結構似合うと思うんですよね。ふふ。
文化の盗用
しかし喜んでばかりもいられません。自分の「出身文化」ではない文化の民族衣装を着るというのは、非常に微妙な問題をはらみうるからです。
それが文化の盗用と呼ばれる問題です。
米国で文化の盗用とは、マジョリティ(多数派民族、アメリカでは主に白人)が、アフリカンアメリカン、ネイティブアメリカン、インド系、アジア系などの社会的に少数派であるマイノリティーの文化の要素を取り入れる行為です。アメリカでは、セレブリティ、ファッション業界、企業だけでなく一般人だったとしても、ネイティブアメリカンの伝統的な頭にかぶる羽飾りや、中国のチャイナドレス、インドのサリーなどを着用したり、デフォルメしてファッションに取り入れたりすると、速攻炎上しソーシャルメディアで槍玉に上がる傾向があります。
さて、Aさんが和装することは、この問題を引き起こすのでしょうか。
短期間ですが、考えてみました。今のところ、心配しなくて良いかなと思います(が、これから2人で考えて、やっぱり辞めようと思うかもしれません)。
理由はいくつかありますが、1つ目はAさんが和装する場所が、東京であり、かつ、わたしの親族のいる場所であることです。和装が「日本全体を代表する民族衣装である」とは間違っても思いませんけれど*2、わたしの知る限り和装以外の民族衣装を自分のものとして着ている親族はいません。Aさんはわたしの親族の多数派である文脈で、わたしの親族が帰属意識を持つ民族衣装を着る訳ですから、文化の盗用にはなるまいと思います。
もう1つは、恐らく、東京で現在標準とされている着付けをするのであって、アレンジしたり過度に着崩したりしないことです。
*1:ところでAさんは、わたしがAさんの衣装を当日まで見ないことを期待しているようですが、Aさんが和装することになったら、この点についてもなんらかの作戦を考えないといけません。選択肢は、
- Aさんに諦めてもらう
- 誰かにAさんについて行ってもらう
のどちらかになる訳で、どちらにしてもよく話し合う必要があります。
法律婚にコミットすることの話
コロナウィルスが猛威をふるっています。そんな中、日本政府がチャーターした中国からの避難用の飛行機の第1便から第3便まで配偶者の退避について調整がつかなかったことについて、国際カップルのリスクの話としてブログの記事を書きました。
今日到着の第4便では調整がついたようで、中国籍および台湾籍の方の家族も退避できたようです。
新型コロナウイルスの感染が拡大する中国湖北省から、日本人らを退避させる政府のチャーター機の第4便が7日午前、羽田空港に到着した。チャーター機では初めて中国籍配偶者や子らが退避し、日本人と合わせ計198人が到着した。
ひとまず家族が離散することを防げたことを大変良いことだと思います。
法律婚でなかったら
ところでわたし達が婚約するにあたって、法律婚を選択したのは、査証と滞在許可の問題が大きかったわけです。
この地球上、わたしたちが一緒に住むにはどちらかに(場合によっては2人とも)滞在許可(在留許可)が必要になります。そして滞在許可や在留許可を手に入れるためには、おそらく法律婚をするのが一番近道になります。
Something old and blue の話 - CDG-HNDな遠距離国際恋愛日記
しかし考えてみると、法律婚をしておかないと、前回の記事で「リスク」として述べた状態の解決策からも埋もれるのではないか、という気がしてきました。たとえば、今回の退避で言われるところの配偶者は、法律婚をしている配偶者のことなのでしょうか。それとも日本で言う内縁関係や、フランスで言うPACSのような関係でも、配偶者として認められるのでしょうか*1。
法律婚をしないと家族を守れないかもしれない。その状態をわたしはあまり良いものだと思いません。家族のかたちを1つに縛ることに合理的な理由はないとも思います。一方で、わたし達の生活は現実のもであって、ある種のプラグマティズムを行使しないとなりません。そしてわたし達がプラグマティックになると、法律婚を支える制度の側に与することになるのです。
わたしが大切に思う人と一緒にいるために、わたしの立場から見ると必ずも合理的ではない制度に、現実の問題としてコミットすること。このことについて、わたしはまだ答えが見つけられていません。