殴るふりの話
寸止め
先日電車移動中に隣に若いカップルが座りました。楽しそうに携帯を眺めながら話し込む2人を横目に、ちょっとだけ羨ましくなり、「我々はいつ会えるのだったかしらね」と思うのです*1。
そのままわたしはスマートフォンに目を移して、ブログの記事の下書きなどを書いていたのですけれど、何やら隣のカップルの動きも声も大きい。視野の端っこを人影がウロウロします。聞くとはなしに聞いていますと、女性が笑いながら「ふざけんなよー」と言っています。気になるので眺めると、その方は続けて同行の男性を殴るフリをしました。いわゆる寸止めです。
止めにくい
わたしはそれを見ながらとても苦しくなりました。別の場所に移動しようかと思いましたけれど(ギチギチのラッシュというわけではありませんが)そこそこ混んでいる車内でしたので、それも叶いません。結局、隣の肩が本当に殴らないか……それだけが気になってしかたなくなってしまいました。
わたしが本気で止めたらきっと、男性の方も「これは冗談に決まっているだろう」と怒るに違いないのです。それでもわたしは止めたくて仕方がありませんでした。気に入らないことを言われて、笑いながら殴るフリをするのは、基本的にはドメスティック・バイオレンスの一歩目だからです。
たとえば、京都市の調査では、「殴るふりをする」は「身体的暴力の被害/加害経験」に数え上げられています。つまり「一歩手前」ではもう済まないのです。
https://www.wings-kyoto.jp/docs/publish_houkokuDV2011.pdf
情けない
そして止めるべきだなあと思いながら、介入できない自分のことを情けないと思うのでした。ドイツでは、こういうときに介入することを「市民としての勇気 (Zivilcourage)」と言うのですけれど、わたしにはそれが発揮できなかったわけです。
もちろん発揮すべき文脈としては、非常に弱いですけれど、それでも許すべきではなかった。そう思うのです。わたしは、本当に手が振り下ろされたときに介入できるのでしょうか。そうであったらいいと心から願いますけれど、今回はうまくいかなかった。次にそういう場面に出会わないのが、一番いいことですが、生きていればそういうことに出会うことは避けがたいでしょう。わたしは自分の勇気がどの程度のものか、とても不安です。