CDG-HNDな遠距離国際恋愛日記

パリと東京。Aさんとわたし。

許すのは誰かの話

「#KuToo」の運動についての記事を読みました。「単純に『パンプスで健康被害を被る人もいるので、履きたくない人には履かなくてもいい権利をください。労働する上で男女平等の権利をください』と至極シンプルな訴えであるにもかかわらず」、議論がバッシングの方向に向かっていることについての議論でした。この記事を「もっともなことだ」と思いながら読んでいたら、議論の本筋じゃないところで、大変びっくりすることに出会いました。

長いですが、石川さんの発言を引用します*1。(下線は、わたしが引きました。)

 

もし、フェミニズムについて理解できない相手であった場合、とことん話し合います。

それに、私自身、昔交際していた相手へ、人格を否定するような発言をしたり、ワガママの度が過ぎた行為をしてしまったこともあって、一言で言うとモラハラをしてしまっていた経験があります。それは深く反省して謝りました。今はその彼と仲良くしてもらっていますが、過去、自分が彼に行ったことは許されることではないと思っています

誰だって失敗したり人を傷つけたりしたことはあると思います。自分の非も認めた上で、もっと社会を良くしたいと活動しているのに、潰そうとしてくる人は何なんだろうなと思います。社会活動をする人は清く正しくなきゃいけない、という意味が分からないです

「#KuToo」石川優実さんが勤務先を突き止められ退職に追い込まれても潰れない理由(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース

 

わたしがとても驚いたのは、許すということについてです。

誰だって失敗したり傷つけることはある。そのとおりだと思います。その際、非を認めることも重要だ。火を見るよりも明らかでしょう。しかし非を認めることは、「許されることではない」こととは区別しなくてはならないと、わたしは思います。

引用文の事例では、許すかどうか決めるのは、「昔交際していた相手」の方です。そして「今はその彼と仲良くしてもらってい」て、その彼が「でもあれはまだ許せないのだ」と言うなら、それは「今はその彼と仲良くしてもらっていますが、過去、自分が彼に行ったことは許されていません」と言うことでしょう。他方で、もしその彼が「もう許したから、仲良くしましょう」と言うのであれば、それは許されないことではなくて、もう許されたことでしょう。

どちらにせよ、許したり許さなかったりするのは被害を受けた側である。そのように述べて欲しかったのです。わたしが非を認めるということは、わたしが「許されるべきかどうか」を決める権利を持たないということです。

ところで、わたしがこの発言の文脈で受けた印象が間違っているのかもしれませんが、この「昔交際していた」方は、当時のことを許してくれている(または水に流して)仲良くしているのでしょう。もし相手が許してくれたら(もしそのことを水に流してくれるならば)、どんなに後悔していても、その許しは受け入れなくてはなりません。それを「いや許されることではないのだ」と言い募ることは、許しということの基本原則にもとると思うのです。

石川さんの運動や、それについての仰りようには賛成したいと思いながら読んでいたので、びっくりいたしました。

 

Odai「どうしても言いたい!」

 

*1:この先は、以前、どこかのSNSに書いた記憶がありますが、どこに書いたか見つけられないので、読んだことがある人もいるかもしれません。お許しください。